封じ手を間違えた話
将棋世界 2004年6月号 記事「時代を語る・昭和将棋紀行 第11回 宮坂幸雄九段」(P.78)によると下記の状況であったらしい。
- 塚田正夫八段(当時)が木村義雄名人と対戦
- 手合いは香落ち・二日制
- 戦型は相振り飛車
- 塚田八段の封じ手は▲2六飛であったが、2五に歩があり只捨てになる
- ▲8六飛に訂正して対局再開
google検索してみると、封じ手@将棋パイナップルのmtmtさんの投稿にも上記と同じ状況と思われる記述がある。
03: 名前:mtmt投稿日:2003/11/15(土) 02:55
昭和30年頃の「将棋世界」に掲載されていた塚田正夫九段の告白(?)によると、対木村義雄名人戦で封じ手で符号を間違え、飛車を相手の歩の前に移動するという手を木村名人は笑って許してくれた、ということがあったそうです。
こちらには「名人戦」という記述があるが、木村義雄名人・戦だと思われる。「名人戦・順位戦:日本将棋連盟」やWikipediaの名人戦_(将棋)によると、塚田正夫八段が木村義雄名人に挑戦したのは第6期名人戦(1947年)だけ。しかし、このときの名人戦棋譜には香落ち手合いは見当たらない。戦型も矢倉・筋違い角・角換わり・横歩であり、相振り飛車もない。
塚田・木村戦&香落ちの条件で探してみると「将棋の棋譜でーたべーす」に「18053 塚田正夫 vs 木村義雄 1940-00-00 八段優勝者名人挑戦譜」というのがあった。対局があったのは1940年。昭和30年代の将棋世界に掲載されても不思議ではない。
「棋書ミシュラン!」によると「菅谷北斗星選集 観戦記篇」に「第十三局 昭和15年 名人八段勝抜戦(11)香落 ▲八段 塚田正夫 △名人 木村義雄」とあるので、1940年にこのような対局があったこと自体は間違いなさそうだ。
「名人八段勝抜戦」を調べると読売新聞・九州日報・北海タイムスなどに掲載されていたようだ。観戦記者から推測するに読売新聞が主催だろうか?
追記:この対局は「16317 塚田正夫 vs 木村義雄 1940-08-00 その他の棋戦」でした。上記の仮説は間違いでした。わかった情報は「封じ手を間違えた話(続)」に書きました。
棋譜から図を起こしてみた。38手目に7六飛を8六に動かした局面。2六に移動させると只だし、相振り飛車だし、両名の段位も合ってる。これが話題の局面なのだろうか? 後手番なので、2筋と8筋を間違えても不思議ではない気がする(香落ちなので上手が先手)。
この間違いは封じ手が図示されていれば起こらなかったと思われるので、この対局では符号により封じられていたのだと思われる。
Wikipediaの封じ手には「将棋の場合、現在の体制になった当初である第二次大戦直後は、封じ手は符号で記入することになっていた」「駒の移動を符号でなく、チェスで行われていたように図で示すことになった経緯は諸説ある。一般には誤記入を避けるためといわれているが、ほとんど非識字棋士であったとされる阪田三吉が棋戦に登場した際、阪田に恥をかかせるわけにはいかず、当時の観戦記者、菅谷北斗星が発案したという講談のような話も残っている」とのことだが、時代が合わないような気がする。Wikipediaの阪田三吉によると、亡くなったのは1946年。敗戦は1945年。持ち時間30時間(当然封じ手あり)の南禅寺の決戦が1937年である。
坂田三吉が封じ手の字を書けなかったという話は、織田作之助の短編にも載っている。可能性の文学と聴雨。青空文庫でも読める(織田作之助)。
南禅寺の決戦で坂田三吉が封じたという記述はmtmtさんが振り駒@将棋パイナップルのNo.57に書かれている。読売新聞の菅谷北斗星による観戦記の一部だ。もしかすると特例?により図で封じても良かったのだろうか。
本記事の推測が正しければ、1940年には符号で封じられていたことになるのだけど。
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