1965年 全国高等学校将棋選手権大会

沖縄の将棋の歴史

近代将棋1968年7月号に、全国高等学校将棋選手権大会の話が掲載されていた。 「巻頭対談 将棋を世界に」という対談記事。対談は大山康晴名人と荻原光太郎(おぎわらみつたろう)昭和薬科大理事長。
(全国高等学校将棋選手権大会は現在は日本将棋連盟・全国高等学校文化連盟の主催で行われているが、当時は昭和薬科大学が主催し、朝日新聞社が後援してた)

この対談の中で、この年4回目となる高校選手権大会の思い出話の中で沖縄についても触れられている。
「行く前日まで参加者の申し込みがゼロ」というのは、うちなーんちゅはギリギリまで申し込まない性格が多いにしても少ないと思う。それでも開催した昭和薬科大も凄い。

荻原 それでも沖縄でやるとき、沖縄の高校が全部反対したらしいですよ。そんな費用があるなら学校へ寄附しろ。(笑)それがぼくが行って校長会の会長、この方は那覇高校の校長なんですが、この方と話をしましてね。 その結果、地方大会が終ったあと、手紙が来ましたよ。沖縄の校長会では全面的に応援する。校長会が決議したというんだ、那覇高校には将棋部ができますしね。うれしかったですね。
大山 よかったですね、本当に。沖縄の第一回大会は印象的でした。行く前日まで参加者の申し込みがゼロでしたからね。
荻原 先生は心配されましたね。ゼロなら行かないほうがいいんじゃあないか。(笑) もしゼロなら講演会に切りかえるから、行ってくれなんて言いましてね。
大山 行ってみたら、申し込みが続々ありましたね。
荻原 沖縄は二つ新聞があるんですよ。沖縄タイムスと琉球新聞。ここへ挨拶に回った ら、朝日の後援だというのに大きく新聞に取りあげてくれた。それで朝から予想もしなかった学校の生徒がグングン来たわけだ。
大山 碁なら相当に集るけれども、将棋はだれもやってないからダメだといわれていたのが逆になりましたからね。
荻原 新聞社へ行っても、編集局長あたりが、将棋をやるというのは聞きませんというんですからねえ。それがフタをあけたら碁の何倍も多いでしょう。新聞社は認識不足だ、なんのために記者になっとるんだ。とぼくは言ったんだ・(笑)いい気持ちだった。
大山 沖縄の学生は始まる時間が過ぎても来るんですよ。ああいうところはノンビリしてると思いましたね。
荻原 雨が降ったのと、遠いいところから遅れてくるんですよ。
大山 前景気がゼロでしたから、遅れてでも来てくれてホッとしましたね。沖縄では理事長も花岡先生も私も、みんなで手合カードつくったり、認定状書いたり……。
荻原 それで向うの人が感動しちゃった。 新聞にも大きな写真で出ました。
大山 東京大会でも沖縄のチームは一回戦を勝った。
荻原 一回戦が不戦勝でしたから、二回戦に勝って三回戦に出たわけです。囲碁の方は 第4位にはいったですよ。そうした成績を持ってゆくと自信がつきますからね。
大山 戦前のアマ名人戦はたしか沖縄が出ていましたよ。
荻原 そのうち返還になりますから、今のうちに大いに普及しておきたいですね。

近代将棋1968年7月号 p.12 「巻頭対談 将棋を世界に」から引用



初期の大会記録

政府立高校なんですよね、この時代。パレット久茂地前は昔は政府前と言ってたなあ。


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