1966年7月 大山名人の沖縄日記 (第二回全国高校囲碁・将棋選手権大会沖縄予選)

シェアする

前回記事※1にて1986年に大山名人が来沖していたことを書きました。大山名人は琉球大学将棋研究クラブの会誌である「将棋研究」創刊号※2の記事によると、1966年夏に「㐧二回全国高等学校将棋選手权大会沖縄地区予選大会」(興南高校)の審判長として来沖されていたようです。

当時の新聞記事・雑誌記事からその様子を追ってみます。

琉球新報1966年7月4日記事から

大会翌日の朝刊に記事が載っています。見出しの団体1、2位は囲碁の部のことです。微妙に囲碁と将棋で扱いの差があるような気がするけど、当時の競技人口を考えると仕方ないかな。

団体一位は首里 二位に沖縄工業
   全国高校囲碁・将棋予選

昭和薬科大学(草味正夫学長)主催の第二回全国高校囲碁・将棋選手権大会沖縄予選は、三日午前十時すぎから、那覇市古島の興南高校図書室で行なわれた。大会は萩原光太郎昭和薬大理事長のあいさつ、将棋の大山名人と日本棋院の加納理事(囲碁八段)から試合場の注意などがあり、開始された。
(中略)
将棋団体優勝は中農、二位小禄、個人優勝は(以下略)

琉球新報1966年7月4日(月)17面より

沖縄タイムス1966年7月4日記事から

タイムスにも記事があります。こちらの方がやや詳しく載っています。将棋個人の部の優勝者は琉大「将棋研究」創刊号の記事を書かれた方のようです。

宮城(将棋 那覇)と大城(囲碁 中農)優勝
    全日本高校選手権沖縄予選 団体は中農と首里
(中略)
囲碁、将棋とも個人、団体戦が行なわれた。将棋は個人十六人、団体は中部農林、沖縄工業、小禄、沖縄高校の四チームが参加、熱戦を展開した
(中略)
また、囲碁は個人八人、団体は沖縄工業、首里高校の二チームが参加し争われた
(中略)
同予選で大山名人は将棋の方を熱心に観戦していた。大会終了後、わかりやすく解説を加えながら指導将棋を打ち参加した高校生たちを喜ばした。
大山名人は「沖縄の高校生のレベルはまだ本土とは格差はあるようだ。しかし、素質はじゅうぶんあるので、いい指導者がおれば強くなれると思う。観戦の感想として作戦、序盤戦が悉く基礎ができてない。中盤あたりからはなかなかいいものをもっていた。こんごの問題としては本土との試合を多くもち、いい指導者がでることです。また、来年もきて沖縄の将棋界に少しでも役に立ちたいと思います」と語っていた。

沖縄タイムス1966年7月4日(月)17面より

沖縄の碁は力碁が多いという記事を読んだことがありますが、将棋にもその傾向があったのでしょうか。復帰前で日本の情報はあまり入ってこなかったと思われます。1966年当時はNHKの前身であるOHK(沖縄放送協会)もまだ無く※3、もしかしたらNHK杯戦も放送されていなかったのかもしれません。RBCとOTVがNHKの番組を放送していた時代です※4

※3 NHK沖縄放送局 | 放送局情報 | 沖縄放送局のあゆみ
※4 沖縄ではウルトラマンは日本と同時放送されていたか?

将棋世界1966年7月号に大会告知

将棋世界誌に大会の告知記事がありました。沖縄と北海道だけは予選を行った旨が記載されています。他の地区の参加者はいきなり東京大会参加らしく、それはそれで大変な気がする。

沖縄地区予選大会

日時 昭和四十一年七月三日(月)午前十時
場所 興南高等学校(那覇市)
表彰 北海道地区予選に準ず。但し優勝校(者)のみ東京大会に招待する

将棋世界1966年7月号P.75

将棋世界1966年10月号に大会記事

将棋世界1966年10月号には大会記事が載っています。現在の将棋世界と違ってアマ大会にもかなりのページ数を割いています。団体戦中部農林については、予選二回戦敗退と書かれています。
個人戦参加校として、興南・沖縄の二校が書かれているのですが、新聞記事では優勝者は那覇高校・興南高校所属のはずですので、何らかの事情で繰り上がりになったのかもしれません。

第二回高校将棋選手権大会
   団体戦は都立千歳高が優勝

(中略)
今回は大会に先立って、北海道予選、沖縄予選を行い、北海道から札幌西、小樽千秋、沖縄からは中部農林の出場が決まり、参加校二百余、参加選手一二〇〇余名と文字どおり全国的な催しとなった。

将棋世界1966年10月号P.32

近代将棋1966年10月号にも大会記事

近代将棋誌にも記事がありました。P.42に記事には沖縄のN選手が選手宣誓をしたと書かれています。Nさんは本大会で初段を送られたともあり、全国的に見ても強豪だったと思われます。ちなみに優勝者・準優勝者が三段認定です。
(Nさん、沖縄姓なのに日本の同音の姓と間違われて名前が書かれています。昔はありがちでした。将棋世界1966年9月号も誤ってるし)。

将棋世界1966年9月号に大山名人の沖縄日記

沖縄大会に審判長として来沖していた大山名人による記事が将棋世界1966年9月号に掲載されています。当時、異国であった沖縄に来た話、沖縄予選の指導記譜もあります。復帰前はパスポートは必要だし、税関も検疫もあったんだよなあ※5。注射嫌だった。

※5 パスポートの話|沖縄県立博物館・美術館

沖縄日記 名人大山康晴
(中略)
いま沖縄は外国なのでビザがいる。といっても、なんのことはない。その日のうちの二十一時には、もう那覇空港に着くのである。所要時間二時間二十分は、私の家から熱海へ行くくらいの時間である。
(中略)
空港の税関で、持参したカップに税金をかけるべきかどうか三十分も足止めを喰い、結局1ドル20セント支払うことで、やっと沖縄に着いた気持ちになる。
(中略)
沖縄に来て有り難かったのは日本語が通じること。パチンコ店もある。日本を離れたという気安さで童心にかえり、スロットマシンもやってみた。5セント、10セント、25セントと。しかしいずれもダメだった。
(中略)
午後、私は一行と分かれて、かつての激戦地だった南部地区を訊ねることにした。(中略) 健児の塔、ひめゆりの塔に花束を捧げ、御霊の安らけきことを念じる。

将棋世界1966年9月号P.98-P.99

参加した学生諸君は大変規則正しくて好感が持てたが、将棋の方は序盤がいたってまずい。将棋の本が少ないためでもあろうが、それでも、角田流とか、ツノ銀などと知っている学生もいた。将棋世界がここまで来ているのだろうか……。

将棋世界1966年9月号P.101

復帰前の沖縄は書店も多く、将棋世界や近代将棋も置いていたんじゃないかと思いますがどうなのでしょうか。先輩方に聞いてみたいです。